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ばあちゃんと私の物語

9年前から孫一人でおばあちゃんの在宅介護をしています。幼い頃からおばあちゃん子で育ってきた私にとって、人生で一番感謝しているのはばあちゃん。今度は私が面倒をみる番だと思って恩返ししているところです。これまでの9年間を振り返り、祖母の変化や介護を通じて経験したこと、孫が介護しているからこそ出会えた人たち、考えられないようなうれしいできごとについてまとめてみました。よろしければお読みください。

【第2話】孫の私がばあちゃんを介護することになったわけ

40日後、手術をした病院から
親戚の叔母の紹介で脳外科のある秋田市の総合病院に転院することになりました。
その2週間後には系列のリハビリ病院に移り、リハビリをしながらの入院生活。
その間、私は月に1度は東京から上京し、ばあちゃんの面会に訪れるようになったんです。
実家の写真を首からぶら下げて、「お家に帰りたい」と
あっちこっち病院の廊下を徘徊するばあちゃん。
ばあちゃんのその先はどうするのか…家族で話し合いました。
父はその時まだ50代半ばで、働きざかり。
もともと体が丈夫でない母は更年期障害もあり、寝込むこともしばしば。
その上、畑仕事もあり、徘徊の始まったばあちゃんを
つきっきりで面倒みることは難しい状況でした。
私も東京で仕事をしていて、めったに帰れない。

そこで、秋田市の総合病院に近い有料老人介護施設を探し、
入所させることになりました。
同じ秋田市内に住んでいたすぐ下の弟夫婦と、付き添い家政婦さんが施設に通い、
ばあちゃんの面倒を看てくれることになったんです。

平成19年11月下旬、介護施設に入所。
ところが、一週間もたたないうちに、尿路感染症からのごえん性肺炎にかかり、
総合病院に再入院することに。
ばあちゃんは自力でおしっこができないため、
導尿という方法で尿道に管を1日数回抜き差ししていたのですが、
その際に細菌が入り込み、尿道に炎症を起こし高熱が出てしまったんです。
1ヶ月もの間、熱の下がらない日が続きました。

東京にいる叔父からは、ほぼ毎日のように
「お袋大丈夫かな? お袋のことが心配で仕事が手につかない」と
電話が私のところにありました。
ばあちゃんの子供は男ばかりの3人兄弟。
平成18年11月に三男を病気で亡くし、翌年の1月に祖父(じいちゃん)も病気で亡くし、
お袋まで病気になってしまって…とひどく心を痛めていました。
弟夫婦は一生懸命面倒を看てくれましたが、
まだ子供が小さく、弟自身も介護の仕事をしており無理はさせられません。
そんなとき、「お袋、このままじゃ春までもたないんじゃないか」と
毎日電話してくる叔父に、後先考えずに言ってしまったんです。
「私が秋田に帰ってばあちゃんの面倒を看るよ!」と。
電話口で「ちょっと待ってくれ」と言った叔父。
電話を切った数日後に叔父から電話がありました。
「数ヵ月間、お袋の面倒を看てほしい」と。
「面倒を看る」と言ってしまったものの、正直、最初は迷いました。
でも私しかいない。後悔だけはしたくない。
よし! 私がばあちゃんの面倒を看る。
11月の始め、ようやく介護する決心がつきました。

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